◆「底」と「豊かさ」について。

先日、テレビを観ていると、阪神タイガースの藤川球児投手(日本屈指のストレートを投げる投手です)がご自身の「火の球ストレート」について解説しておられました。

足の踏み出しから腕の振り、身体の重心移動まで事細かに説明されるのを観て「え!それって秘中の秘、企業秘密じゃないの!?
」とビックリしていたら、最後に「鍛えてないと一瞬で身体が壊れるから、よい子はマネしないでね」的なことを言っていて、妙に納得しました。

頭で「わかった気になる」というレベルから、「体得する」というレベルまで「理解」にもいろんな段階があるのだなぁと。

一流料理店のレシピが本屋さんに並べられているのも、レシピだけではどうにもならない部分が多分にあるからこそ、公表しても怖くも何ともない、ということがあるのかもしれません。

それら「至高」とも呼べるハイエンドな物事は、いったい何のためにあるのでしょう。

◆名古屋国際女子マラソンで北京オリンピック出場の最後一枚の切符をかけて走った高橋尚子選手はこんなことをおっしゃっていました。

「オリンピックで金メダルを穫った。世界記録も更新した。誰よりも速い。誰よりも強い。『至高』の存在になったいま、自分の強さを証明する為に走るのではなく『頑張っている誰か』の為に走りたい」と。

先の藤川球児投手で言えば、球界ナンバーワンのストレートはチームの勝利の為であり、応援しているタイガースファンの為であり、さらには野球界全体を盛り上げる為にあるのだと思います。

彼らが山の頂上で見ているのは、天上から目を射す太陽の光ではなく、眼下に広がる広大な景色なのかもしれません。

◆数日前、いつものようにサイトを巡っていると、
デザインの世界に身を置かれている方が二人して喩え話に「中学生」という言葉を選ばれているのをみて、藤川球児投手や高橋尚子選手のプレーに通ずるものがあると思ったのです。

「うさぎとカメ」を例にとれば、びゅんびゅんと他を寄せ付けない走りでゴールした山の上には誰もいないばかりか、追いついてくる気配もない。その時、うさぎが感じたのは達成感だったのでしょうか。それとも…。

◆大阪で行われる選挙では「お笑い票」と呼ばれる「無党派層」の存在が無視できないのだとか。
また、一過性のブームが文化として定着するには「熱心なファン」だけではなく、「ミーハー」な人がある程度必要とされるとも聞きました。

そういった流れで言うと、「地上デジタル放送」は日本人の意識に静かではあるけれど、大きな影響を与えたと感じています。

「プラズマ!」だとか、「大画面!」といった「山の上」を目指す方向とは別に、「ワンセグ…」という亀の歩みのような選択肢が用意されたことで「テレビを視聴する」という行為の豊かさがぐーーんと広がったように感じるからです。


テレビ放送は2011年にデジタル放送へ完全移行するとのことですが、「もう、テレビはワンセグで十分」という人は結構多いような気がします。

かく言う僕も今のところテレビを買い替える予定はなく、テレビなし生活(ワンセグで最低限はフォロー)という選択肢を選ぼうかと考えている一人です。あーーー、でもなーー、何だかんだ言って野球はデカい画面で観た方がおもろいんよなーーー。そこよ、そこなのよーーー。大画面とワンセグっすかねーーーー。…悩む。

◆話を少し戻して。

ある世界で「TOP」 を極められた方は、社会という共同体においては「TPO」をわきまえて融通無碍に動くことができる、と言うのは言葉遊びが過ぎるでしょうか。

作家、海老沢泰久氏は1994年に直木受を受賞した後にパソコンのマニュアルを書き下ろし、第6回日本のマニュアル大賞を受賞されています。なんか、すごくないですか。

氏はおっしゃいます。
「マニュアルというのは、その機械のことをよく知っている人間が書くから、読む人間が分からないのである。なぜなら、知っている人間というのは、世の中にそのことを知らない人間がいるということをしばしば忘れがちになるものだし、そのことにかりに気づいたとしても、自分がよく知っているために、知らない人間というのは何を知らないのかが分からないのである」

青臭い言い方になりますが、世界が「自分」と「自分以外」にわけられるとすれば、自らを変えることのできた人々が、次なるステップとして自分以外を変えようと思った勇気に、僕は手放しで拍手を送りたい。

そしてその自分以外の他者として、まだ社会について「何も知らない小学生」でもなく、「わかった気でいる高校生」でもなく、「よくわかってないけど、話せばわかる中学生」をターゲットに、わかりやすく、とっつきやすく思いを伝えようとしている大人がいてくれる、ということは、精神年齢が中学生で何においても亀のような僕にはとても嬉しいことなのです。